今日のまとめ(ブログ更新です)
今日は通院の日。自分が思っている以上に状況が悪くなっていた。今までなんともないだろうと思っていた箇所が第三者から見れば明らかな異常であることが分かり、自分が「精神障害」を持っていることを思い知らされた。
自覚しているつもりでも、今冷静に振り返るとおかしな場面ばかりで正直ぞっとしている。穏やかじゃないのだわ。
今のA型作業所で働く事には満足しているが、まさかこの期に及んで「まだ障害者ではない」という気持ちがあった事にショックを受けている。自意識の問題で、現実としてどうこう影響があるわけではないが、うぬぼれていた事実になんだか。
昼間Twitterに「障害をハンディと言うのはどうよ」的な事をツイートしたが、現実として結果は出ていた。かなり悔しい思いだ。だがそれ以上やれよと言われても出来ないのも現状。ぐぎぎ。
軋轢を感じ毎秒ごとに病んでいく感覚を、大きなスパンではかなりクリアなものに出来た。事実働けているし動けてもいる。10年前酒におぼれてた頃と比べれば別人とも言えよう。自画自賛する。
とはいえ、症状に出ている事に関し都合良く鈍感になっている今はかなり危ないのではないのだろうか……と、考えてしまう。
処方される薬は精神的な部分を鈍感にさせ麻痺させるものだ。多分同じ症状の人たちと大して処方箋は変わらないだろう。それが更に現実世界との亀裂を作っている感覚だ。ハードル、といってもいいか。「いかに自分が低いハードルの世界で事足りている」という健常者への恨み辛みとゆがみがあった事を再確認出来た。なんとも手痛い認識不足。返って冷静になれたものだ。
さて、それでどうするかが今後の課題であり今までの課題でもあった。この課題はずっとついて回るものでこの先消えることはないと確信している。悲観などではなく治るものでもないと事実として見据えているので計画も立てられるのだ。悪い事ばかりではない。物はとりよう、である。
幸いにして自分は環境にかなり恵まれた人間といえよう。詳細は省くがやはり10年前と比べ格段に良くなっている。これも環境が与えてくれた奇跡的な巡り合わせだ。なので基板は揺るぐ事なく今はじっくりと課題を見据えられる。
攻略法を考える。まるでゲームの謎解きをしているような気分になる。考え試行し改善点を見つける、それの繰り返しになる。今までもこれからもだ。
年をとるごとに自分が落ちていくのでは、と20代後半では悲観していたものの、柴見流一郎という人間はしぶとかったようだ。老獪さというには早いが(あこがれるものである)色々ずる賢い事も考える事が可能になった。真正面から事構えるには十分なほど。
自分は意地っ張りな人間で、不満を感じれば良しとしない完璧主義者だ。理想が高いというか意識高いというか、イタい。はい。
そのためか、前に進もうという性質は逐次内部で生産されていく。軌道に乗ったのだ。病院からの帰路では落ち込んでいたものの、それを老獪さ(こだわる)が外れかけていた軌道を瞬時に戻したのだ。認知行動療法という訓練を重ねていたのが今になって活きている。
短いスパンで見れば一進一退でも振り返ればかなりの積み重ねとして結果をだしているではないか。
自分はハンディと思わないのには変わらない。意地っ張りである。
今は意地で余裕を作り更に手段の備蓄を増やしていける。10年という日々はそれなりに有意義にさせてくれたと思った12月。もう一度振り返る時がくればさぞ手札は増えているだろう。なので、ハンディでも何でもない。単に生き方に新たなバリエーションが加わっているだけだ。
さて、夕飯にそなえお米を研いでこよう。
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