今日のまとめ(ブログ更新です)
ただいま絶賛不調中。精神的な事から拗れるパターンですね。柴見はこうして一人で癇癪起こして周りをさんざん心配させる人間です。今はそれをよしとしてます。
さっきTwitterでぼんやりと浮かんだ事をメモ書きにしていたのですが(TLの人たちごめんなさい)時には冷静になって思いついた時に思いついたものを書きとどめておかないと、気が済まない性格でして。Twitterをメモ帳代わりにするのはまた別のお話。
今回思ったことは、落ち込んだ、不調になった時にどうするかという事でした。
柴見は自己主張が激しいので、何回も落ち込んでその数偉そうな事をツイートしてるのですが、これらのツイートはただどや顔したいだけ、なんですけれども……欲を言えば、誰かの何かのきっかけ程度には、なったらいいなぁと言う色があったりします。
何かあるごとに浮き沈みが激しい柴見ですが、今回もちょっと躓いた事があって、それをきっかけに悪いことしか目に入らず、被害者妄想にとられまた落ち込むというよくあるパターンになってました。恒例です。慢性的な?
なのでそのたび誰かの助けてもらってここにもいる訳ですが、そのときの事を出来るだけ書き留めておこうと思いました。
書き溜めるといってもたいした事じゃないです。言い方は違えど本質は変わらない事だと思います。
ツイートでも出したのは「立ち直り方」です。何も病気障害持ってる人だけが落ち込むわけではありません。誰だって辛い時は辛い。
しかし、誰もが簡単に立ち直っているわけではありません。立ち直れただけの「何か」があるはずです。そんな事を振り返ってみました。
簡潔に言えば、毎度柴見は「助けて」が言えない人でした。今もですけど。SOSのサインというものですね。それが具体的にどんなものかも分からなかったのです。今は少しずつですけど、声を出せるようになっています。
「立ち直り方」と書いたのは、この時どんな風に誰かに助けられているか……いざ立ち直ると、傷はふさがってしまうのでついつい忘れがちになります。
だけどそれが悪い事なんじゃない、という事があります。自己弁護を含むかもしれませんが。
人間完璧な生命体ではありません。安易な生命体なんていないでしょうけど。
同じ過ちをしてしまう、前は反省して立ち直れたはずなのに! と柴見は嘆いていました。何度もくじけるのは自分がちゃんとしてないからだ、と。これは発病する前からあった傾向でした。
二度目です。人間完璧な生命体でありません。だから、誰だって同じ事で躓き、間違えてしまう事はあるのです。何度でも間違え何度でも誰かに迷惑をかけてしまう生命体です。
それは自己弁護じゃね? と思われる方もいらっしゃいますが、何も根拠なく発言しているわけではありません。柴見は落ちた後、立ち直り何度も何でも誰とでも戦い続けている人たちを直に見ています。これからもそうでしょう。
自己弁護だろうが詭弁だろうが、何でもかまいません。結果が出せるのなら。出せたのなら。
結果とは、努力だけが産むものなのでしょうか。柴見はこれを否とします。かといって有名な格言である「99%の努力と1%の~」でもありません。努力。幸運も、手助けも、周りの理解も絶対必要でありますが。
ここで言う努力とは、頑張っているから結果が出る、という形式ではありません。辛い思い=努力というはけでありません。
結果に表れたものだけが、苦痛を努力に昇華できるという、ただの現実です。
努力は基本的にしんどいものです。苦痛です。辛いです、耐えがたいです。
だからといって、ダメージが無条件で回復し強度を増す、といった「果報は寝て待て」なことではありません。「辛いから頑張れた」と言えるのは、結果を出せた勝者のみに許された発言……と表現すると語弊が生じますね。本当の勝者は、多分そんなことは言わないと思います。
辛い思いや心の傷は、いずれ時間が解決するかもしれません。誰かに助けてもらえる事もあるでしょう。それはとても大切な事で、忘れてはならないものです。
大切にすべき事は、その「立ち直り方」であると考えます。
誰にどんな言葉をもらえたか、それをどんな風に自分へと変換していたか。
どんな物事が自分を励ましたか、それがどんな働きかけで出来ているのか。つまりは事の発端だけではなく、結果まで行く道中の風景を書き留めておく事が大切な事だと今は思いました。
結果をだせたのは、「今回の結果」が出せたのは、それなりの経緯があったから。そして心に刻んでおかねばならない。傷が癒えた後順調にいくと、柴見は分かっていても脳が覚えていても、いずれはまた同じ失敗をします。そのたびに「またかよ……」と自分を嫌いになる。
しかし、そのたびに立ち直れているという事実もあるのです。何故か。周りに助けてもらったからですね。柴見は自分がとても恵まれている環境にあるという事が自慢です。(ここはどや顔です)
自己弁護ではないと書いたのも、立ち直りその後何度も躓き、傷つき、しかし結果を出した人たちを知っているから、堂々と言えるのです。ダメージを結果に変換したのです。それは、まさに「努力」と言えるのではないかと思います。とても分かりやすいシンプルな「努力」です。スタンダードと言っても過言ではないでしょう。
ただしそこにたどり着くまでのからくりが大事、からくりがある、という事を頭のどこかで置いていた方がいいな、と今日思いました。何事にも、理由はあるのです。
長々と書き散らしましたが、結論は一つ。
この世に頑張ってない人なんていないという事です。『努力の内容』がある、という事です。誰だって、みんな頑張っている。
言い換えると「しんどい=努力」ではなく、「しんどい=結果が出せてた今の自分」です。誰だって、もう「結果」は出ているのです。今、こうしてSOSを出す、出せたという結果です。大切にすべきは経緯の中身、です。
奇妙な話ですが、現実に現れている事柄なので。もうちょっと欲張りします。
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